
昭和26年。まだ上石神井小学校も、光和小学校も、そして上石神井北小学校も、下石神井小学校もなく、 「石神井」の小学生は誰もが石神井小学校へ通っていた頃の話です。 この年、石神井小学校の設立77年を記念して 校歌が制定されることになり、作詞が草野心平へ、 作曲が宅孝二へと委嘱されました。 草野心平は代表作である「蛙の詩」によってあまりに有名な詩人ですが、氏が下石神井、 それもこの御嶽神社に住んでいたことは殆ど知られていないようです。 また、宅孝二という音楽家に至っては、今日不当に忘れられているとすら感じられます。 そこで、今回この機会を利用して、作詞と作曲とでこの校歌に関わった、 この2人の芸術家についてご紹介させて頂こうと考えたわけです。
草野心平については、おそらく多くの方がご存知でしょう。 1903年(明治36年)、福島県の上小川村に生まれた詩人/批評家。その擬声語の扱いは特徴的で、 作品に接する人々の心に強烈な印象を残します。 代表作である「蛙の詩」は、後には高等学校の現代国語の教科書に載ることにもなりました。 戦前より中原中也らと詩誌:「歴程」を創刊するなど活躍し、帝都日日新聞の記者として、 戦時中の満州・中国を転々した際の記録も良く知られるところです。 また、戦後は小石川や角筈で「火の車」なる居酒屋を経営するという、 少々変わった経歴を持ってもいました(心平は、当時第一回読売文学賞を受賞し、日本文芸家協会の理事だったのですから、 そのような地位を確立した詩人が自ら居酒屋を経営するというのは相当奇妙な話です)。 死の前年の1987年には、長年の詩作・評論活動を高く評価され、文化勲章を受章しています。
そんな草野心平が石神井小学校の校歌を作詞するに至ったのは、1949年(昭和24年)から56年(昭和31年)まで、 当御嶽神社の社務所に住んでいたことに拠っています。心平が御嶽神社に住むこととなった経緯は、 日本図書センターから出版されている「草野心平 凹凸の道−対話による自伝−」に詳しく、 これによると、心平の次男である大作が、当時、当神社の宮司をつとめていた石塚忠顕(ただあき)と交友があったことがきっかけとなり、 何とかして東京へ出たがっていた心平に、忠顕が社務所を提供することを申し出たことから、 心平一家は下石神井へと住むことになったとのことです。
こうしたことが実現したのは、この石塚忠顕という宮司も心平に劣らず変わった人物だったからに違いありません。 戦時中、中島飛行機に居たため熱狂的な飛行機愛好家となった忠顕は、神社境内で自家用飛行機の製作に没頭し、 ついには日本自家用飛行機協会の会長すらつとめることになるのです (「文藝春秋」の昭和46年12月号に、忠顕が自家用飛行機を製作している様子が取材されています)。
飛行機好きの神主の話は措くとして、御嶽神社での草野心平は、神主と間違われたりしつつ、戦後復刊した「歴程」の編集、 随筆集「火の車」、詩集「天」、評論「宮沢賢治覚書」などの執筆に没頭して行きました。 前出の居酒屋「火の車」を小石川で開業したのも、御嶽神社に逗留していた頃のことです。 石神井小学校の校歌を作曲した頃の心平には、校歌作詞の依頼が次から次へと舞い込むようになり、 そうした慌しさは近年出版された草野心平日記から読み取ることが出来るでしょう。
草野心平記念館の館長をつとめる、文芸評論家の粟津則雄氏に伺ったところ、下石神井時代の草野心平、 その生活については、未だ研究者にも詳しいことが知られていないといいます。今後、さらに詳細な調査を行い、 皆様に報告させて頂ければ、と思います。
それでは、校歌の作曲に携わった宅孝二とは、一体どのような人物だったのでしょうか?
宅は草野心平ほど有名では無いかもしれません、しかしながら、その生涯は草野に勝るとも劣らずユニークなものなのです。 宅孝二は1904年(明治37年)大阪府堺市に、醸造家の息子として生まれたピアニスト/作曲家です。幼い頃は謡曲を学びましたが西洋音楽へと転じ、 大戦前のフランスへと留学して、名ピアニストのアルフレッド・コルトー、そして20世紀音楽史における並ぶもののない名教師として知られる ナディア・ブーランジェへと師事します。帰国後、東京女子高等師範学校(現:御茶ノ水女子大学)で教鞭をとっていましたが、 当時の文部大臣(かつての陸軍大将:荒木貞夫)が 「音楽など不用品」と演説したことに憤慨し、 辞表を叩きつけてしまったというエピソードもありました。戦後は、東京芸術大学のピアノ科で指導に当たっていましたが、 それと同時にジャズ・ピアノに没頭し、嘘か真か、息子ほども年の違う渡辺貞夫のジャズ教室へ通っていたといいます。 当時、クラシックの本流にあるピアニストがジャズを弾くということは、自らのキャリアを水の泡にしてしまいかねない危険な賭けでありました。 にも関わらず、己の音楽的好奇心の向くままに市井のジャズ・バーでピアノを弾いていた宅のフットワークの軽さは真に尊敬に値する ものといえましょう。晩年には、南博(南氏による氏の回想はこちら)や藤井郷子といった、現在第一線で活躍するジャズ・ピアニストを育て上げ、 さらには自作の発表会を開く等、その活動は多岐に渡るものでしたが、1983年、自宅でピアノを弾いている最中に倒れ、 そのまま帰らぬ人となりました。
現在では、宅の作品も演奏もCD等で聴くことは殆ど出来なくなっています(正確にいうならば、CDはリリースされてはいるものの、 通常の流通経路にのっていないため、どのCD店でも取り寄せること出来る、というわけにはいかないのです)。ただこれは、 日本のクラシック音楽市場というものが、日本人演奏家/作曲家に冷淡であるがゆえのことで、チャンスさえあれば、 宅孝二という音楽家が再評価されることも十分あり得ることと思います。 また、宅孝二は50本近い映画音楽の作曲も手がけているので、氏が手がけた映画−たとえば森繁久彌の「社長シリーズ」− をご覧になるならば、その業績の一端に触れることが出来るでしょう。
さて、こうして、草野心平と宅孝二の人生を概観するならば、この2人がある種の反骨精神を共有していたことが良く わかります。そして、こういう人たちが地元の学校の校歌を作っていたということは、 より多くの人たちが知るべきことのように思われるのです。